2012年08月30日

霊的繋がりを断ち切る〜新たなブログとの出会い〜

8月中旬頃にとあるブログと出会いました。
「思いの制限をひらく」というブログです。
(ブログを書いている方の許可を頂いたのでリンクさせていただきました)
そのブログを読み始めると急激に眠くなりました。
私は書籍やブログで読んでる最中に眠くなるものは波動が精妙で私がついていけないか、
絶対的につまらないかのどちらかだと思っているのですが、
このブログは前者だとすぐにわかりました。(偉そうなこといってすみません)

だってとても面白そうな記事が沢山載っていて休まずにずっと読み続けていたいと
思っても眠くなってしまったり、すぐ意識がそれてしまったり、
身体が何だかうずうずしはじめたりするので中々集中できないのです。

その現象が何故なのかは私には説明できないのですが、自分の知識から考えてみて、
もしかしたらこのブログのエネルギーによって自分の意識の変革がなされることへのエゴの抵抗
であったりするのかな?とも捉えられるかなと思っています。

とにかく少しずつでもと思いそれから毎日時間がある時にずっと読み続けているわけです。
そして今日読んてた記事に「霊的な繋がりを断ち切る」というアファメーション等の紹介があったのですが、
その説明を読んでいて私はドキっとしました。
「霊的な結びつきを愛の結びつきだと思っている人がとても多くてこれを断ち切ることを躊躇する」
と書いてありました。
私も読んでて躊躇したからです。

参考頁「自分に悪影響を与えるものとの「霊的な結びつきを断ち切る」方法」

霊的な結びつきによってエネルギーを奪われたり、身体に影響が出たり、心に影響が出たりと本来不必要な影響がでたりするものだと思います。
その影響自体も私は愛する人のものだったらそれは愛の結びつきなのだと思っていたのだなぁと気付きました。
まさに自分で受け入れてるってことなんですね。

私はここ最近エネルギーに敏感になっていると感じるようになりました。
初めはただ自分の体調が悪く病気だから外出するとすぐ発作が起きるのだと思っていましたが、
特定の場所に行った時の体感を重ねるうちに、
どうも霊的に無防備に外出するからというのも影響があるらしいと判ってからはプロテクションのやり方を
教えてもらったり自分のエネルギーをクリアにするエッセンスを使ったりするようになりました。
勿論肉体的にも快適に楽しく外出できる様にする工夫をしたりと色々試行錯誤中です。

今はそうやって自分を守るという方法を模索しているところですが、最終的にはどこにいっても
誰と会ったりしても影響されない自分になる事が目標です。
そうしないと後々私がやりたいと思っていることが実践出来ないからです。

そんな目標をもってるくせに、私は愛する人との霊的繋がりは断ち切りたくないと躊躇したんです。
衝撃的でした。
自立したいと願っているのにまだ依存していたい、甘えていたいと思っているのです。
自分の覚悟とはそんなものなのか、と改めて認識しました。

話は少しそれますが私は去年末からずっと左の人差し指が痛くて朝起きると曲がらなくなってるという
現象が数ヶ月続いたことがありました。
その相談を整形外科や友人やセッションなどでしてみて、お墓参りにいく必要があると言われたので
母方のお墓まいりに1人で行って、その場を浄化しておじいちゃん達と話してきたことがあったりしました。
それから徐々に指の痛みが気付いたら無くなってきていたので、やっぱりお墓まいりに行くことが必要だったのかしら?と思っていたのですが、
その後霊視できる方のセッションを受けた時に指の痛みの話しをしたら、
それはお母さんと繋がっているからお母さんが不安なことがあるとその指が傷むんだ、
といわれたのです。
私は妙に納得して、この指が痛くなったら母が不安なことがあるサインと思えばいいんだ!
痛いけど便利じゃない!と思ったのです。

今思うと、それって霊的繋がりを愛の結びつきだと勘違いしてがっつり受け入れてるってことなんじゃ?
と今日ブログ記事を読みながら思ったのです。
確かに指が痛くなったら母が何か困ってると判るのは便利かもしれないけれど、
もしこれが霊的繋がりによるもので、指が痛くなるだけじゃなくて自分自身に他にも色々影響しているかもしれない、ってことですよね。
それは楽かもしれないけれど、お互いの為になるのか?
私が繋がっていることで私の体調等に悪影響が出たとしてそれを母が心配するのでは意味が全く無いわけで、
断ち切ることに躊躇はしたけれど、この記事を今読んだことにも意味があるのならば、
今、母とのこの霊的繋がりを断ち切る決意をしなければならないと感じました。
霊的繋がりを断ち切っても愛の絆が切れるわけではない。

そう自分に言い聞かせてそこに書いてある「祈り」を実践してみました。
すると祈りの文章を読み始めた途端私の意識が抵抗を始めたのか涙がボロボロと出始めました。
私はそれに負けるかという決意を込めて泣きながら祈り続けました。
祈りながら私はこんなに母親との繋がりが強かったんだなぁと実感したのです。
その霊的な繋がりを愛情だと思っていたんですね。
手放すのが悲しくて、悲しくて、まだ親元で甘えたいという気持ちもあって。

それでも今私はここで霊的繋がりを断ち切る、と決めたのです。

暫くして涙もとまり、祈りもおわりました。
実践してみて、まだ実感はないけど涙が出たってことはそこに霊的繋がりが存在していて、
かつそれを自分が手放したくないということだったんだな、と感じました。

少し前に霊的繋がりのコードカットが必要です、というチャネリングメッセージを受け取っていたのですが、
それはこれからセッションをしていったりする上で他人からの不必要なコードをつなげっぱなしにしないように、という意図なのかと思っていました。
勿論それもあるだろうけど、このような身内や愛する人とのコードも本来は必要ないということを今回知る機会になった気がします。
正直なところまだコードが不必要だとわかってもそれが腑に落ちるところまでいっていません。
まだそれを愛情とか絆だと思ってる部分があるみたいです。
いつか近い未来にこのことが納得できますように。

日々の気付きに感謝を込めて
posted by えみ at 16:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 日々の気付き

2012年08月23日

夢は霊的社会科見学?

ここ最近とても普段の自分とは違った行動をする夢をみます。
連日そうだったのでどういうことなのかなぁ?と色々考えてみました。

まず一昨日に観た夢はトイレに私が用を足しに入っていた時のことです。
女性用トイレなのに突然複数の男性が話しながら入ってくる声が聞こえてきました。
そしていきなり個室ドアの隙間から覗き込んだかとおもったら、
「えみじゃん!」みたいな気安いノリでいきなりドアをこじ開けてきたんです。
私はびっくりしたのとその悪びれもしないというか常識の無さに頭にきて
そこに正座しろ!と男共を6人位?その場に正座させて怒りを爆発させました。

初め間違って入ってきたのは仕方ないとして、その後悪いと思わずに居座るとはどういうことかと
説教しながら怒ったのですが、男達は悪いと思ってない様子。
あまりにも頭にきてその場で正座してる姿を写真にとって誰かに報告しに行こうとすると
さっきまで何処吹く風だった人達が顔色を変えて卑怯だ!
というようなことを言いながら今度は私を責め始めるというものでした。

そして今朝見た夢は、なぜか以前付き合っていた人と今住んでいる家から違う家に引っ越すという話になっていて、新しく引っ越す物件も既に決まっているらしく私はただそれに従うような感じから始まりました。
だけれど新しい物件は今の家よりもはるかに狭くて住み心地も悪そうというか・・
むしろその引っ越す直前にハッと我に返り、私は今住んでるここが大好きで離れたくない!!と
急にそういう思いがこみ上げてきて相手に断固拒否するというものでした。
すると相手は青いレトロな外車に乗っていきなり私の方に突っ込んできました。
私はそれでもそんな車怖くないと恐怖を微塵も感じずその車と対峙しているという夢でした。

起きてから今住んでるところが気付かないうちにこんなに大好きになってたんだなぁと思ったのでした。

この連日の激しい気性の夢が何か意味があるのかしらと思いをめぐらしたりしました。
普段の私は自分が言うのもあれなんですがとても温厚な生き物なんですよ。
めったに怒ったりしないし、断固拒否とかそういう拒絶行動を取るなんてことも殆どありません。
だけどここ数日自分の気性の激しい部分があるというのを垣間見ているという気分です。
ああ、私もこんな風に怒れるのか〜・・・みたいな。
ただ表に出さないだけでちゃんと自分の中にはそういう部分があるのかな、と思ったんです。

余談ですが、私は最近クロップサークルのエッセンスを飲んでいます。
本来クロップサークルエッセンスは飲まないで使うものなんですが、
飲用許可を正式に出してくれる方のセッションを受けた時にたまたま出たエッセンスでした。
テーマが「女性性と男性性の統合」、bSのエッセンスです。

以前から私は女性性と男性性のバランスがどうも悪いらしいというメッセージがきていました。
それでこのエッセンスが選ばれたのかなー?と思って既に3週間程飲んでるのですが、
ここ数日の攻撃的な夢はその影響もあるのかな?と思ったんです。

女性性と男性性の統合というテーマにおいて、この激しい気性の部分であったり
本心を曲げない勇気であったりする自分の中の部分に気付いて、
こういう部分が自分の中にあることを認める必要があったり、
これを実際自分の人生で表現することも時として必要になってくるのかもしれない。
必要な時に出来る様に夢にでてきたのかも、と思いました。

私が起きて私として生活している時、私に起こる出来事によってその時に感じる感情はより身近に
リアルに感じられるけれど、どうしても客観的に見ることが出来なかったりします。
それは痛かったり苦しかったりする時により強く感じます。
苦しいとそれに捕らわれてしまって中々本質がみえない。

だけど、夢の中だとそういう肉体面での苦痛というものをあまり感じないことが多いんだけど
感情はよりリアルに感じられ、だけどもそれを一歩引いたところからも観察できる。
だから夢を覚えて持ち帰れたとき、観た夢の中での感情や出来事を改めて思い出してみて
あれはこういうことだったのか、そういう風にみえるのか、とわかることも良くあります。
自分で体験経験しながらより客観的に感情や体験を観察できる。学ぶことが出来る。

それはまるで霊的な社会科見学をしてきたような感じだなと、今日思ったのでした。
夢で体験した感情や経験が、もしかしたら自分が過去世で体験したことを追体験してるのかもしれないし、
その感情を理解するために仕立てられた物語かもしれない。

昔から私は夢を観るのがとても好きでした。
昔は空を飛んだりとか良く行く街に行ったりとか、
ただ夢を観るのが好き、という感じだったけど、
今では夢を観るのは好きだけどその見方がかわりました。
夢から気付きを得られるなんて、何て便利で楽な方法なんだろう!と思ってます(笑)

でも夢も現実での抑圧が大きければ大きいほど歪んでしまう気がします。
私が漫画を描いていた頃は、〆切りが近づくほどに怖い夢ばかりみていました。
描いた原稿が川に流されるとか・・・
ここ数年夢の質が変わったなと思いましたが、そういうストレスが減ったからかもしれません。

気付きが多い夢を観るためには日々の生活にもちゃんと目を向ける必要があるのかもしれませんね。

まぁあれですよ、上記のようなしょーもないと思える夢ですらも
自分にとっての気付きはある、ということです。
そこから何かを気付くか、ただのしょーもないくだらない夢だったと判断するかも
本人が決めることなんですよね。

皆さんも是非夢の中で社会科見学して色んな気付きを持ち帰ってきてくださいぴかぴか(新しい)
posted by えみ at 15:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 夢日記

2012年08月20日

天然石に思うこと

昨日のことです。
丁度親しくさせていただいているヒーラーさんと電話でお話しをしていた時でした。
簡単なカードリーディングをしていただいたのですが、大きな水晶のカードがでたとのことでした。

その後そのカードについて降りてきたメッセージ等をシェアしていただいたのですが、
話しているうちに、突然私の中で天然石に対する固定概念のようなものがあることを認識したのです。

それは天然石の本等に書いてある効用に準じていなければならない、
というものでした。
私は天然石を使ってアクセサリーを作るときに特に効用や効果をあまり参考にして作ったりしません。
これが好き、この組み合わせが綺麗、これがしっくりくる、等で作ることが多いのです。
だから出来たアクセサリーに付加価値をつけるかのように後付で石の効果を書いてみたりしたこともありましたが、何かダサいっていうか違うんだよなぁ・・・と思っていたんです。
そしてうーん・・って思ってるからか、イベント等でアクセサリーを展示しても売れたことが無いんです。

でも最近はそういう悩み?というか葛藤のような物を奥底に沈めてとりあえずアクセサリー作るの楽しいからやってよう、みたいに思ってる部分があったんだと思います。
そして昨日クリスタルについてのメッセージを受けてたときに、突然それらの忘れかけてたことが浮上し
光明がみえたというか何だか判ったことがあったんです。

それは
必ずしも本に載っているようなパワーストーンの意味に準じなくてもいいんだ、
ということ。
私は石からたまにチャネリングでメッセージをおろすことがあります。
今は主に自分の為にメッセージを貰ってるだけでした。
そしてこれからもそうやってメッセージをおろしていくと、
必ずしもそのメッセージと世間一般でいう石の効用が同じかというと
違うことの方が沢山石とはなしたら多くなってくると思うのです。
私はそれが無責任であったりチャネリングが間違ってるといわれるんじゃないかということが怖くて
人の為に石のメッセージをおろすということを躊躇していました。
だってそこには責任がついてくるからです。

だけどそんなこと怖がる必要ないんだって、何か突然判ったのです。
私がメッセージをおろした石が必要な人がいたら、その人のもとへその石は行くはずだからです。
そして本に準じた意味の石やアクセサリーが欲しいなら、その人達はその分野のお店や作家さんから譲っていただけばいいだけのことだったんですね。
私は私の方法で石と交流して私なりの方法でその石達を必要な人のもとへ送り出せばいいんだということが判ったんです。
その方法は本に準じる必要はないんだと。

多分自分を否定されるのが怖かったんです。

前に漫画を描いていた頃、私は親友に自分の漫画を否定されていました。
それでも自分の依存心から相手と離れることよりも辛くても一緒にいることを選びました。
何故かというとその方が利益がでるからです。
今思うと何で否定され続けてるのに我慢してでも一緒にいることが出来たのか…。
それは依存以外の何者でもなかったように感じます。
依存とはそれほどまでに相手にしがみついてしまうものなんですね。

そしてそんな辛い思いをもうしたくない否定されたくないって気持ちが
気付かない部分にあったように思います。
そんな経験がなくても普通に否定されたくないっていう気持ちは持っていたと思いますが。
その後も嫌われたくないと思って行動してても知らない間に嫌われることがあるということも知りました。
それなら人に好かれようなんて行動する必要は無いじゃないか、自分にもっと素直であってもいいんじゃないかと思うようになりました。

そして昨日、石にたいしての気持ちも同じような課題だったのだなぁと気付いたんです。
私がおろしたメッセージを否定されたくないから今までやってなかった。
やるのを躊躇してた。
だってチャネリングを否定されたら、私が漫画の世界で居場所をなくして自分の世界が全て崩壊して、
ボロボロの状態から今の精神世界に興味を持ち勉強して、
今まで頑張ってきたことが無駄になってしまうと思ったから。

だけどそんなことを怖がってもそれは幻想でしかない。
だってどこにいっても何をやっても必ず自分と相反する考えの人はいる。
学びの課程が違う人、向いてる方向が違う人、色々いる。
私が知らないところで妬む人だってうらやむ人だって沢山いる。
その人の反発を恐れて怖がって萎縮していても意味がないんだと、
やらなかったら反発もないかもしれないけれど、私の成長も他者への貢献もない。

ならば自分の成長のために、それが人への貢献の為の礎となるならば
世間の常識に準じなくてはならないという考えはやめてみようと思ったんです。
もっと自分が心で感じたものを素直に受け止めて、
それを勇気をだして表現してみてもいいのではないか、
自分を信頼したいと思いました。

自分のチャネリングによってもたらされたメッセージも、
私が信頼していなければ人に分けられないじゃないかと。
世間の常識は無常であり、ずっと同じということはないのだから
今は石とはこういう意味だと書いてあったとしても、数年後は判らない。
それなら今の私が出来ることを自分を信頼して提供していった方が
いいんじゃないかと思いました。

こんな長く説明っぽいの書いたけど、ひらめいた時はほんとに一瞬でパワーがぶわぁって
なって世界が明るく開けたー!って感じただけです。
それを後々噛み砕くとこんなかんじ、みたいな。

作品に付加価値をつけて値段を高くして売れるようになりたいなんて思うんじゃなく、
その石からのメッセージをつけることで本当にその石とご縁のある人とめぐり合えるように
その役にたてますように。
貴方が幸せになる為のきっかけになれますように。

そんな思いを込めて今度アクセサリーを作るときは石からのメッセージをつけてみようかなと
思いました。

最後まで読んでくださってありがとうございます
日々の気付きに感謝を込めて
posted by えみ at 12:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 日々の気付き

2012年08月19日

セキセイインコの自由

私は夢の中で胸の中に一羽のセキセイインコを抱きしめて私が昔住んでいた土地を自宅に向かって歩いていました。
私ともう1人誰かが一緒に歩きながら、私は胸の中で逃げないように抱きしめているインコを気にしながら歩いていました。

途中の広場などには他の綺麗な色をしたセキセイインコや他の鳥達が沢山いて、私はこの胸の中にいる子がそっちにいかないようにその子を手にさらに隠しながら移動したのでした。
だって外の子たちと触れ合ったりしたら病気が移ってしまうから。危ないから。
そう思って絶対近づけさせないとその子を守りながら移動していました。

そしてやっと家に着き、ほっとして胸の中に抱いてたインコを手から出してみました。
するとその子はとても羽根がボサボサで手入れも何もされてない状態で、顔も貧相な感じになっていました。
私はそれらに意識がいかず、ひたすらその子のほっぺをなでなでしていました。
なでられてる間、その子はじっと目をつむって気持ち良さそうにしてるところで目が覚めました。



起きてから、ぼんやり疑問を感じました。
ただひたすら守りながら来たけど本当にそれでよかったのか?
本当にその子にとってそれが良かったことだったのか疑問に感じたんです。
外界からの病気であったり困難や障害からひたすら守ってたけれど、
確かに病気になったり困難は無かったかもしれないけれど、
家に帰ってみてその子を手からだしてみて、
手入れもされずにぼさぼさの羽毛、貧相なまま変わってない顔、

本来の鳥ならばもっと美しい羽根になってて生き生きと飛び回ったりするはず。
その子だってそれが出来たはず。
それなのに私はただ守りたい一心で、その子の自由や可能性を奪ってしまっていたんじゃないか、
尊重していなかったんじゃないかと起きてから思ったのでした。
夢の中の私はただ守りたい一心でした。

「守る」という気持ちや行為はもしかしたら時として、
そのように相手の気持ちや自由や可能性を尊重することを忘れてしまいがちに
なってしまうのかもしれない、と考えさせられる夢でした。

私達が真に成長するためには、ただ全てから守られた環境にいてはそれが望めないということかもしれません。

相手の自由を尊重しその人の光という可能性を信頼すること。
その上で必要な時にそっと手を貸すことが出来るようになれたらと最近は思っています。
その人がその人らしく本来の自分の意思で何でも出来るようになってもらいたいと思うのです。

それは私自身の課題でもあると思いました。


ただ守りたいと思うのは愛情ではありますが、自分のエゴでもあるのだなぁと今回の夢で感じました。

もしかしたら世の母親も子を守るってこんな気持ちなのかなぁと
(鳥と一緒にするなと思われたら申し訳ないですが、私にはその小鳥がわが子のように感じたので)
うっすら思ったのでした。


夢って面白いですね。
私の気付きの半分以上はもしかしたら夢からかもしれません。

最後までお付き合いいただきありがとうございます。
愛と感謝を込めて
posted by えみ at 11:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 夢日記

2012年08月16日

突然の気付き

お久しぶりです。
今日は昨日の出来事なんかを書こうと思います。
昨日8月15日に仲良くしていただいているヒーラーさんの御家に遊びに行かせて頂きました。
引っ越して1周年祝いに手作り料理等を持ち寄っての集まりだったのですが、
その行く道中、バスに乗ってボーっとしていたら何だか突然湧き上がってきた考えがありました。

私はここ最近ずっとパニック発作やら機能性低血糖障害やらと言われてよく外出時に発作をおこす体質というか持病ができてしまったわけなのですが、もしかしてこれって私が愛が足りないと思ってて皆に構って貰いたい、愛を与えて貰いたいと無意識に思ってる部分があるんじゃないの?
と、思ったのです。

だけど知識では自分は1人じゃなくて見えない存在達が私と共に常にいて導いてくれているのも判っているわけです。
それなのに孤独で愛が足りないと餓えているのか?判ってなかったのか?と感じたのです。
勿論自分だけで完結するのではないことも、愛を分かち合う喜びであったりそういうものも必要なのは判っているつもりですが、それは自分が愛が足りないから愛が欲しいから分かち合うものではないと思うのです。前提が違うのです。
なんという構ってチャン体質だよ、と思わず思ってしまいました。
昔からそう人から言われてもいたし、病気になったりするのは構って欲しいからだといわれたこともあります。
そんなことない!病気はこんなに苦しいのに何で構って欲しいからってだけでこんな苦しまないといけないんだ、と思う気持ちの方が強かったんです。

認めたくなかった。

だけど、ボーっとしてたときにそういう考えが浮かんできたんです。
愛が欲しいから病気なのかもって。
勿論それだけが病気の原因ではないことも判っています。
自分の身体にもっと意識や興味を向ける必要があったということも今では理解していますし、
他にも沢山の病気になる必要があった理由も自分で納得している部分もあります。

だけど愛されたいから、愛を与えられたいからという理由だけは気付かないようにしてたきがする。

そしてそう思ったあとに、じゃあ私は愛が足りないと思ってるのか?と考え始めました。
知識として、ガイド達が私についていてくれて、常に愛を注いでくれているのを知っています。
知ってるけど実感して無いってこと?腑に落ちてないってこと?

そんなことを考えてましたが、その時また本当に突然、私は私が感じることさえできれば
愛で充たされているんだということが何か突然判ったのです。

私が家にいてもいなくても、どこにいても私は愛されている。

何故ならガイド達は私と共にあるから。
私は1人ではなく私が感じることができるなら愛は既に私の周りに充たされているのだと、
何か突然理解したのです。

私が愛が足りないと感じているのは、私が常に愛に充たされていると気付いて無いだけなんですね。
私が1人で発作を起こして苦しんでいたとしても、本当は1人で苦しんでいるのではない。
見えない存在達は苦しむ私の側で自分の事のように心を痛め、それでも私が乗り越えると信頼して
見守ってくれてるのだと思うのです。
もしかしたら自分の事以上のこととして私を苦しみながらみてくれているのかもしれません。
私は最近チャネリングを通じてハイアーセルフという存在は私よりもよっぽど私という存在を理解していて
親よりも私にとって近しい存在だと思うようになりました。

でも辛い時って自分の辛い部分に捕らわれてしまっていて周りなんかみえないんです。
だからすっかりそういうことを忘れてしまう。
だけど、私が思い出すだけで、私が愛を感じようと心を感覚を開くだけで、
本当は愛に充たされているんだと判るはずなんだということに気がつきました。

私がどこにいようとも私は愛され愛に充たされているんだと理解したんです。

そう思ったとき、バスの中なのに涙がぶわぁぁぁぁっ溢れてきちゃって、
さすがにここでいきなり号泣はまずい!と泣き止むのに必死でした(笑)
これは気づきの涙だったのかなぁ。
気付けたことが嬉しくて出た涙だったような気がしています。
私は愛されているんだ、ひとりじゃないんだ、とうっすらと実感としてやっと判ってきた第一歩という感じでした。


そんな至福の気持ちの中、遊びにいったのですが、またその日に限って結構酷い発作を起こしてしまったんです。
よりにもよって人の家で・・・。
段々具合が悪くなってきて、おなかも痛いし緩いし吐き気も酷くなってきた・・・
というあたりで皆さんが心配してくださって皆でヒーリングしてくれました。
むしろ色々中に入り込んでたようで(御先祖様とか色々・・・)
それをひたすら抜いていただきました。
丁度先週仙台の夫側の祖母が他界したので告別式に行って来たばかりでした。

私は私に出来ることがあるんじゃないかとひたすらスピクリでヒーリングをずっとしていました。
祖母の告別式のときもずっとヒーリングしていました。
お婆さんが先に他界したお爺さんと再会して本当に幸せそうにしてる姿が見えて涙したりもしました。

私はそういうことができると、ヒーリングで何でもかんでも助けたいと傲慢になっている部分があったんだと思います。
自分で何でもしてあげたい、どうにかしてあげたいと思い上がっていました。
それを今回の発作で思い知らされた気がしました。
私には全てを救うことはできないのだと。
得手不得手があって、自分に出来ることと出来ないことを見極める必要があるのだと。
それがまだまだ甘いと言われました。
ヒーリングのエネルギーは無限にあっても、使う私が消耗することに変わりはないんだと。

いくらプロテクションを覚えても、自分からエネルギーの回路を開きっぱなしにしていたら意味がないことも改めて判った気がします。
そして自分を認めることの大切さも。

帰宅途中も発作が酷くて迎えに来てくれた夫にも迷惑をかけてしまいました。
あんな顔をさせてしまったのは私が苦しみに捕らわれてしまっていたから。

体調的には本当にボロボロで酷いものでしたが、改めて思い返すと沢山の気付きがあった日でした。

そしてこの日、出かける前に引いた大天使ラファエルのオラクルカードは
「DIVINE INTERVENTION」

聖なる介入

というカードでした。

・サインや直感に注意を払うように。
それは答えへの道しるべとなる聖なるガイダンスです

・よく見ればどの問題にも目に見えない祝福があることに気付く

そんな意味があるそうです。
一日がおわってみると、確かに色々な気付きは聖なる介入だったのかも。
聖なる介入のタイミングや方法は、大抵驚くべき形で起こるらしいとも書いてありました。
ほんとにもう突然というか驚くべきっつーか苦しいっつーの!辛いっつーの!という出来事でしたよ。

苦しい出来事だけれども気付きという祝福が沢山あったんですよね。

皆さん、聖なる介入というカードが出たら、
何か素晴らしい出来事が突然起こって幸せになる、とか
夢見がちにならず、地に足をつけて起きた現実を受け入れる心の準備をしておいた方がいいですよ。
きっとその先に行ってみたらそれは素晴らしいギフトだと気付くのだと思うのです。



最後までよんでいただきありがとうございます
愛と感謝を込めて
posted by えみ at 17:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 日々の気付き